
東京・広尾で韓国の伝統食をモダンに表現する新感覚の韓国料理レストラン「HASUO」のオーナーシェフ 李廷峻(イ・ジョンジュン)氏が、これからの自分を表現するひと皿として披露してくれたのは、意外にも韓国料理の代名詞ともいえる「カンジャンケジャン(カニの醤油漬け)」である。そこにはどんな想いが込められているのだろうか。
李氏が日本の地をめざしたのは、偶然と必然の結果だった。韓国の大学で調理を学び、ソウルのフランス料理やモダンコリアンのレストランで経験を積んでいた20代のころ、同期の友人が日本から帰国して語った「HAJIME」での感動体験が、李氏の料理人人生を大きく変えた。
「当時、韓国にはモダンコリアンのレストランは数えるほどしかありませんでした。しかし、日本には古くから欧州で学び自国の要素を巧みに融合させて独自のスタイルを築いた先人たちがいました。その方法論を学ぶことこそが、自分のめざす道への最善の策だと確信したのです」

念願叶い、ワーキング・ホリデーを利用して来日すると、「HAJIME」や「NARISAWA」など、日本のファインダイニングを牽引するレストランで研修を重ねた。当時の自分を、李氏は「若さと経験不足ゆえ、当時の自分の器では受け止めきれないことばかりでした」と謙虚に振り返るが、その濃密な時間は氏の料理人としての土台を築いたはずだ。
なかでも「HAJIME」のミーティングにおいてオーナーシェフの米田肇氏を中心に展開される、宇宙、テクノロジー、哲学、アート……料理の枠を超えた多岐にわたる議論から、ひと皿に思想を込めることの意味を学んだという。
「尊敬する米田肇さんは、どんなに努力を重ねても近づくことすら叶わない雲の上の存在です。今の自分がここにいるのは、米田さんのおかげ。だからこそ、僕は自分にしかできないやり方で、本物の韓国料理を表現するべきだと思ったのです」

35歳を迎えた李氏にとって、「RED U-35 2025」は最初で最後のチャンスだった。かつては外国籍の応募に永住権などの制限があったが、条件の緩和を知ったとき、氏は迷わずチャレンジを決めた。「日本から世界へ」というテーマは、異国で戦う自分にこそふさわしいと感じてもいた。
「日本料理らしい引き算の美学で表現する韓国料理」をコンセプトに、初エントリーにしてゴールドエッグまで上り詰めた李氏だったが、目標としていたレッドエッグにはあと一歩手が届かなかった。
「大会終了直後は、万全の準備を施し、表現すべきことを余すところなく表現できたという充足感で満たされていましたが、時間が経つにつれて後悔の念が勝りはじめました。試食審査でのミスはそのひとつ。厨房での試作時には完璧にクリアなスープだったのですが、会場へ向かうバスの揺れなどが原因で濁ってしまいました。そのリスクを想定しきれなかった自分の甘さ。現場で気づき、レシピを変更するなどの柔軟な対応ができなかったこと。それらが、じわじわと悔しさとなって込み上げてきたのです」

この後悔を糧にさらなる高みをめざす李氏が今、最も情熱を注ぐのは、日本における韓国料理の再定義である。日本で手に入る食材はどれも上質だが、それゆえの難しさもある。たとえば、みずみずしい日本の白菜や大根は、実はキムチには向かない。韓国の野菜はより硬く、辛く、凝縮感がある。その土地の料理は、その土地の食材を最もおいしく食べるために構築されてきたという真理に、氏は改めて直面している。また、日本における韓国料理のイメージが固定化されていることにもどかしさを感じているという。
「かつては、誰も知らないマイナーな伝統料理を現代的にアレンジして提供していましたが、そもそもオリジナルを知らなければ、アレンジの価値も伝わりません。今はあえて原型を留めながら、そのクオリティを極限までブラッシュアップしたものを広めていきたいと考えています」
その言葉を体現するのが、冒頭で触れた「カンジャンケジャン」である。用いるのは李氏が惚れ込む北海道・函館や熊本・天草産のワタリガニ。その極上の味わいを活かすための、素材の処理の仕方や漬け込み方、味付けなどの調理法はすべて李氏のオリジナルだ。それは、単なる伝統の再現ではない。韓国で生まれ、日本でガストロノミーを吸収し、自らのアイデンティティと向き合い続ける料理人だけが紡ぐことのできる革新のひと皿といえるだろう。

【料理】
本物の韓国料理を提供していきたいと語る李氏の「カンジャンケジャン」。季節によって北海道・函館や、熊本・天草産のワタリガニを用いている。「日本のカニは本当においしいです。昔と異なり、現在は優れた急速冷凍技術もあるので、素材に火を入れて殺菌する必要はありません。上質の味わいを活かすには、伝統的な調理法にこだわる必要はないと考えています」。日本の美意識と韓国の伝統、そして現代のガストロノミーが交差するこの場所でしか生まれ得ない古くて新しい韓国料理だ。
text by Moji Company / photos by Hiroyuki Ono
李 廷峻
「HASUO」オーナーシェフ
1990年、韓国全羅北道、全州市生まれ。「HAJIME」(大阪)や「NARISAWA」(東京)、「Reminiscence」(名古屋)、「Doughroom」(ソウル)など、国内外のミシュラン星付きレストランで研鑽を積み、2022年より現職。
「RED U-35 2025」においてゴールドエッグを受賞。