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野田達也 成田陽平|互いに、次の高みへ―

RED U-35 2019準グランプリシェフ対談企画

INTERVIEW 2020.03.09

新時代の若き才能を発掘する日本最大級の料理人コンペティションRED U-35(RYORININ's EMERGING DREAM U-35)。2019年の第7回は、「グランプリ該当者なし」となったが、成田陽平氏(右)と野田達也氏(左)の2名が準グランプリを受賞。以前から知り合いだった2人は、過去に同大会で受賞歴があり、互いの背中を見て成長を続けている。これまでの歩みや出会い、料理にかける想いについて語り合った。

最初の出会いから10年。交差した2人の料理人人生

― 同じ年に生まれたお二人が、「RED U-35 2019」で準グランプリに輝きました。それぞれのこれまでの歩みを教えてください。

野田 実は私たちは、10年ほど前に初めて出会いました。当時、私は福岡で調理師専門学校に通い、夏休みに東京のフランス料理店で研修することになりました。その店で料理人をしていたのが成田さん。彼は、私に最初に料理を教えてくれた1人なんです。

成田 そのときの野田さんを、よく覚えています。私は料理人を目指して青森から上京し、東京の調理師専門学校を卒業して、フランス料理店に就職していました。そこに福岡ら来たのが野田さん。その後、連絡を取り合うことはありませんでしたが、同い歳の彼をどこかで意識していました。

野田 そのころの成田さんは、すでに料理人で自分はまだ調理師専門学校に通う学生。それ以前、10代の頃の自分は、周りに迷惑ばかりをかけるダメな人間でした。結局、20歳で高校を卒業し、コンピューター関連の仕事に就きますが、人と直接関わる仕事で人に喜ばれ、恩返しができる人間になりたいと考え、選んだのが料理の道でした。

成田 私は青森のりんご農家に生まれ、食材が豊かな土地でおいしい料理に囲まれて育ちました。ですが、青森を出て広い世界を見たいと強く思い、その手段として料理人を目指すことにしたのです。専門学校で学び、海外研修で現地を訪れるうちにフランス料理に引かれ、卒業後は日本のフランス料理店で4年半働いた後に渡仏。2年間のフランス生活では、美食大国の奥深い伝統に感銘を受ける一方で、日本料理について聞かれることも多く、関心を持っていました。そしてパリのアラン・デュカス氏の店で働いていたときに、京都の日本料理店「菊乃井」の村田吉弘氏がデュカス氏と1日だけのコラボイベントを行いました。そこで村田さんに出会って、自国の文化をもっと勉強しなければと思うようになったのです。

野田 成田さんの先輩シェフに成田さんの消息を何度か尋ねていたのですが、最初は「成田くん、フランスに行ったよ」と。頑張っているんだなと思っていたのですが、しばらくすると「彼、日本料理をやっているみたい」と聞いて驚きました。でも、それからも成田さんの動向を意識していました。


自分と向き合うことで成長へ 日本の価値を伝える料理人になる(成田)


― 成田さんは日本料理へ進み、野田さんは様々な店で働くようになりますが、それぞれの転機は?

成田 村田さんに出会った頃、ちょうど帰国のタイミングだったので、「菊乃井」で2週間、研修をさせてもらいました。そのときは日本料理に進もうと思ったわけではなく、経験として2〜3年間日本料理に携わってもいいかもしれないと思い、そのまま「菊乃井」で雇ってもらいました。20代半ばを過ぎていましたが、それまでのキャリアは一切関係なく、皿洗いからの再出発。それでも、日本料理や日本の食文化の奥深さに触れ、どんどん追求したい気持ちが沸いてきました。

野田 私もフランス料理の本場を見たくて1年間パリで働き、帰国後は稼ぐために料理人専門の派遣会社に登録し、様々な業態の店で働きました。2017年には再度、渡仏。そんななか、ケータリングやパーティなどにも携わり、世界の一流シェフや他ジャンルのアーティストと仕事をする機会にも恵まれ、多くのことを学びました。レストランの哲学や料理人の情熱などに触れて感銘を受けるとともに、共通言語のように人や場所、文化によっていかようにでも形を変えていく料理に、大きな可能性を感じました。また、店舗に属することだけが料理人のあり方ではなく、ケータリングなど店舗以外の働き方も魅力に感じ、食べる人が幸せになる空間を共有できれば、レストランという形態に捉われる必要はないのではと考えるようになりました。新しいタイプなどと言われるのですが、狙ったわけではなく、目の前の課題に必死に取り組んで見えてきたという感覚です。

それぞれの活躍が次のステップへの刺激に

― それぞれの道を歩いていたお二人ですが、思いがけずRED U-35で再会します。

成田 フランスから帰国した2013年に第1回のRED U-35が開かれました。このときの準グランプリが、フランスで知り合った友人の安發伸太郎さん。私は安發さんから調理助手を頼まれて審査会場におり、同い歳の安發さんの受賞に衝撃を受けました。2015年のRED U-35は「菊乃井」の先輩が出場し、また助手を務めたのですが、厳しい審査を目の当たりにし、自分をしっかりと持っていないと戦えない舞台だと痛感したのを覚えています。このとき準グランプリを獲得したのが野田さんでした。自分より後に料理を始めた彼が、もうここまで来ていることに大いに刺激を受け、翌年応募するきっかけになりました。自分はまだ力不足だけれど、チャレンジしたいと強く思わせてくれたのが、野田さんだったのです。

野田 2016年にRED U-35が開催したワークショップで成田さんと再会しました。最初の出会い以来でしたね。確か「ファイナルで会いましょう!」とエールを送った記憶があります。ところが、私は三次審査で落ちてファイナルに残れず、今度は成田さんが準グランプリに輝きました。

成田 私は、このとき準グランプリをいただいたことによって、日本料理の道を歩んでいく決意が固まったのです。応募の段階では迷いが残っていたのですが、審査を通じて自分と向き合えたこと、受賞をきっかけに多くの人に助言をもらったことが大きかったですね。RED U-35に出会えたことは幸運だったと思っています。

野田 私にとってもRED U-35は、間違いなく1つの分岐点になりました。最初に準グランプリをいただいた2015年では、同じファイナリストとなったシェフたちと強い絆ができ、料理人人生の中で何度も励まされました。ですが、2016年に出場したときに三次審査で審査員から将来のことを聞かれ、すでにケータリングなどに可能性を見出していたにもかかわらず、将来の道筋を明確に伝えることができずに落選。自分のビジョンが輪郭しか描けていないことに愕然とし、以後、自分の言葉で将来像を語り、説得力のある実績を積むことを自分に課しました。それが達成できてから、もう一度挑戦しよう、そして絶対に優勝すると誓いました。


料理は人や文化をつなぐ共通言語 形に捉われず、料理で笑顔に(野田)



― それが、2019年のRED U-35ですね。今回はグランプリ該当者なし、お二人が準グランプリになりました。この結果をどう受け止めましたか?

成田 2016年に出場してわかったことは、RED U-35は誰かと戦う場ではなく、自分をどれだけ掘り下げられるかが問われる場だということ。自分と向き合い、何がしたいのか、どんな料理人になりたいのか、そのために今の自分にどんなアクションができるのか―。それに挑戦できるのがRED U-35です。もちろん、2年ぶりに応募した今回は、優勝しか見ていませんでした。でも、成績よりもう一度挑戦したい、自分を追い込んでみたいという気持ちが勝っていました。

野田 私も今回が最後のチャンスと思って臨んだので、準グランプリで悔しい気持ちは強いです。ファイナルに成田さんとともに残ったことも、大いに励みになり、ライバルという気持ちもありましたが、今回は2016年の大会でできなかったことをすべてやり遂げる覚悟で臨んだので、何よりも自分自身との戦いでした。前回出場してからの2年間、貴重な経験をたくさん積み、将来のビジョンもプロセスも明確に描け、実現できるという自信もありました。審査ではそれを表現できたという手応えはあります。もちろん、伝えきれないところがあったからこその「準グランプリ」なので、それは受け止めています。

成田 「グランプリ該当者なしの準グランプリ」という結果に、初めは戸惑いましたが、今はこれでよかったと思っています。自分をしっかり見つめ、自分自身に対して恥ずかしくない戦いができましたが、日本を代表する料理人として、料理界全体を背負う覚悟があるかと問われれば、そこまで至っていなかった。グランプリの器には足りなかったのだと。ただ、野田さんと同じファイナルの舞台に立てたことは、素直にうれしいです。料理人はほかの料理人を意識することが成長の糧になると考えているので、自分にとってRED U-35は大きな存在です。

それぞれの故郷を拠点に、世界に向かう未来を描く

― お二人とも将来は故郷で料理人として活動したいとおっしゃっています。

野田 2019年夏に、2年間勤めた和牛をメインに扱うパリのレストランを辞めて帰国し、今は東京で活動していますが、2年後には故郷・福岡を拠点にして、国内外の様々な人や場所とつながる活動を展開しようと考えています。今は準備期間として、レストランやケータリングで料理を提供することはもちろん、キッチンカーなどにも幅を広げているところです。料理自体はフレンチが基礎になっていますが、カテゴリーに捉われなくてもいいと思っています。パリにいるときは、日本の食材を使うと、フランス人は「これは和食だ」と喜んでくれ、逆に同じ料理を日本人はフランス料理として歓迎してくれました。大事なのは、和食でもフレンチでも、食べる人がより幸せに感じること。呼び方はどちらでもいいのです。

成田 同感です。私も食べる人の受け取り方に委ねることが大切だと思います。料理をする側の自由度は変わらないので。ただ、自分は日本人なので、日本料理を謳うほうが日本に役立てるような気がします。日本の食材や日本料理の価値を、より伝えやすいと。いずれ故郷の青森で店を持ち、青森を拠点に日本の食文化を世界に発信したいと考えています。



― 今後、どんな料理人を目指していきますか?

野田 人を笑顔にする料理人です。料理だけでなく、誰とでも対等に話ができる知識を持つことも、これからの料理人には大切だとも思っています。

成田 人の生活や自然環境、自分にも無理のない生き方を貫き、自分の料理で人を幸せにできる料理人になりたいと強く願っています。


・野田氏の三次審査の料理「恵みと実り」。危機が叫ばれる海洋資源を日本人になじみ深い「米」に置き換え、テーマ食材の「鯖」とともに表現。未来を見つめ直すきっかけとなる一皿に仕上げた

・最終審査は自由にプレゼンテーション。野田氏は、料理人としての歩みや料理への思いを述べ、「料理人の新たな働き方や選択肢を地方から発信したい」と語った


・成田氏の三次審査の料理「寒露のころ 秋鯖 米」。ガンが群れをなし、菊が咲き誇る日本の晩秋の風景を、稲わらで軽く燻したしめ鯖、新米、菊の花などで表現。秋の実りに感謝を込めた一品

・最終審査でプレゼンテーションに臨む成田氏。故郷での食体験、フランスにいたからこそ気づいた日本料理の素晴らしさを語り、「日本の食文化を伝えていきたい」と決意を述べた

(転載:「ぐるなび通信」2020年2月号/撮影:岡村智明)

プロフィール

野田 達也/成田 陽平

野田 達也(左)
1985年、福岡県生まれ。福岡調理師専門学校卒業後、東京とパリのレストランでフレンチをベースに経験を積む。ケータリングやパーティなどで、世界各国のシェフや芸術家とのコラボレーションに参加。現在は、ホテルやレストランを運営する「コレクティブメゾン nôl」(東京)に所属し、「Défricher cuisine(開拓の料理)」を掲げて活動。RED U-35 2015、2019準グランプリ、同 2016シルバーエッグを受賞。

成田 陽平(右)
1985年、青森県生まれ。東京調理師専門学校で西洋料理を学び、東京とフランスのレストランでフランス料理の腕を磨く。渡仏中に日本料理にも関心を持ち、27歳のときに京都の日本料理店「菊乃井」での研修を経て、その後、同店に入店。日本料理人として皿洗いから修業を始める。現在、同店の料理人として活躍。RED U-35 2016、2019で準グランプリを受賞。

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