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常識に縛られない自由の精神に憧れて

生江史伸(「レフェルヴェソンス」エグゼクティブ・シェフ)

INTERVIEW 2014.09.10

2014年度「アジアのベスト・レストラン 50」では、25位にランクインし、一躍その名をアジア全域に知らしめた「レフェルヴェソンス」エグゼクティブ・シェフの生江史伸氏。 その経歴は少々ユニークだ。名門大学を卒業後、イタリア料理店で修業を開始。その後偶然出会ったミシェル・ブラスの料理に魅せられ「ミシェル・ブラス トーヤ ジャポン」入店。 2008年には、「ザ・ファット・ダック」にてスーシェフを経験。世界のガストロノミーを牽引するミシェル・ブラスとヘストン・ブルメンタールに師事し、両者の影響を感じさせつつも独自のコンテンポラリーなフランス料理で人びとを魅了する。 そんな生江氏にこれまでのキャリアを振り返っていただいた。

 

料理人のエリートコースに乗っていたら、今の自分はない

 

——生江さんが本格的な修業をはじめられたのは大学卒業後です。料理人としてのスタートが遅かったことで、焦りを感じたことはありますか?

 

それはもう、かなり焦りましたよ。とくに社会人1年生のとき、同僚はみな年下の“先輩”。料理学校を経た同僚たちは、すでに基礎的な料理の技術をもち、いろんなことを知っていましたから。それに、何をどれだけ勉強すればよいのか、それすらもわからず、とにかくありとあらゆる本を読みあさりました。和食やフランス料理、あるいは有名シェフの本や調理技術の本まで、興味の赴くままに。それらの本をすべて合わせたら段ボール箱で20箱分くらいにはなるでしょうか。今思えば、漠然とした不安と焦りを抱え、それを打ち消そうとがむしゃらに勉強したこの時期の経験は、僕にとっての料理学校だったのかも。はじめから料理人のエリートコースに乗っていたら、今の自分はないかもしれませんね。

 

——確かに、生江さんの経歴は少々ユニークです。イタリア料理を志していた人が、フランス料理に目覚めたきっかけは?

 

こんなことを言うと怒られそうですが(笑)、当時はフランス料理に苦手意識がありました。何を食べさせたいのかわからない、どこかはぐらかすような料理がピンとこなくて……。でもそんなときに出会ったのがミシェル・ブラスの本『Bras』だったんです。運命の本との出会いの場所は、修業のために訪れたニューヨークの料理関連専門の書店。めくるページに現れたのは、高度な技術と哲学に裏打ちされた自然と調和する料理の数々でした。それを目にして、これこそが僕がやりたかった料理だ!と。「先にやられた!」と思ったほどです。おこがましいにも程がありますが(笑)。それまでもやもやしていた頭の中が突然クリアになったかのような興奮がありました。よく見るとそれはフランス料理にカテゴライズされるものだった、というわけです。帰国後すぐに思いの丈を書き送った手紙が功を奏し、晴れて「ミシェル・ブラス トーヤ・ジャポン」へ。それが2003年。ちょうど30歳のときでした。

 

 

——念願のレストランへの入店ではありますが、30歳での大転換です。不安はありませんでしたか?

 

「ミシェル・ブラス トーヤ・ジャポン」は、フランスの本店をそのまま日本にもってきたようなお店で、営業中の言葉はすべてフランス語です。フランス人シェフとフランス語で対等に話をする帰国組もいました。ここで再び焦りを感じましたね。しかも、これまで培ってきた料理の技術をどういかせばいいのかもわからない。もう、くやしくて。フランス語はもちろん、フランス料理の古典を学びつつ、さらにミシェル・ブラスのスタイルを吸収しなければならず、最初の一年は無我夢中。最も共感したのは、最新化学のアプローチを用いながら、自然への尊敬の念を忘れない彼の、科学的でありエモーショナルでもある――2つの要素がうまくバランスを保って共存していたところ。そのスタイルに料理人としての理想をみたんです。

 

——生江さんはその後「ミシェル・ブラス トーヤ・ジャポン」でスーシェフを経験され、2008年には35歳で英国「ザ・ファット・ダック」に入店されます。その経緯とは?

 

将来自分の店を開くことを考えたとき、フランス料理の引き出しの少なさが少し気になっていて、ミシェル・ブラスのスタイルとはかけ離れた料理を一度経験しておくべきだろうと考えていました。ちょうどそんなときに、いろんな方の力添えもあり紹介してもらったのが「ザ・ファット・ダック」でした。彼の料理は、ミシェル・ブラスとは対極ともいえるスタイルですが、両者には共通点もありました。それは既存のフランス料理を超え新たな料理を志す独創性や、その自由な精神です。そこに強烈にひかれました。実際、ヘストンはミシェル・ブラスが大好きでもあります。ちなみに僕が「ザ・ファット・ダック」に在籍していたのは2008年から2009年にかけての約1年間。ワールドベストレストラン50で、2年連続2位だった時期です。1位はそれぞれスペインの「エル・ブリ」、デンマークの「ノーマ」。そんなタフな時期でしたから、すごく刺激的でしたし、英国のレストランでありながら世界のトップを目指せるということに、世界のどこでレストランを開こうとも振り返ってくれる人は必ずいることを教えてもらったような気がします。

 

 

——修業をはじめたころに、英国のフレンチレンストランで働くことになるとは思っていなかったのではないでしょうか。20代のころのキャリアプランはどのようなものでしたか?

 

20代に海外研修をして、30歳になったら帰国してシェフになり、35歳くらいで独立開業というのが、料理人が想い描く一般的なコースでしょうか。僕も同じようなことを考えていたと思います。しかし、実際にはそんな理想とはまったくちがう道を歩くことになりましたが、僕はこれでよかったと思っています。というのも、海外修業は経験すべきだとは思いますが、あまり若いうちに行かない方がいいかもしれないと、今はそう考えているからです。20代での海外修業は、技術的にも精神的にも未熟な状態からのスタートなので、見る物すべてが新鮮に映るはず。したがって、良くも悪くも経験したことをすべてスポンジのように吸収するでしょう。日本である程度の実績を積んだうえでなら、料理やシェフの哲学、経営についてなど、より本質的なところに触れることができるはずだから。少なくとも、まっさらな状態で海を渡るのと、結果を求められて海外で仕事をした場合には、得る物はちがってくる、ということです。

 

——異なる個性の持ち主である2人のシェフ、ミッシェル・ブラスとヘストン・ブルメンタールに師事された生江さんは、両者の影響を感じさせながらも、そのどちらでもない、まったく新しい個性を表現されています。

 

よく耳にする「素材をいかす」という言い方が、あまり好きではありません。なぜかというと、僕は自分が想う素材らしさを追求しますし、そこには自ずと己の個性が表現されるはずだと考えているからです。とはいえ、実際には僕はつねに“クエスチョンの人間”ですから、ひと皿ごとに、もっとよくなるだろうと試行錯誤の連続です。ある素材を扱い始めた瞬間から料理がどんどん美味しくなるのがわかるんですよ。しかし、やがてその素材を手放して、新たな素材を迎え入れるときは、少し切なくなります。その繰り返し。常に新しい料理を作っている感覚ですね。

 

——RED U-35の挑戦者のなかには、生江さんの異色の経歴に勇気をもらう料理人もいると思います。そんな彼らにメッセージをお願いします。

 

僕の経歴をみて勇気をもっていただけるのならそれに越したことはありませんが、真似はしないほうが絶対にいいですよ(笑)。僕だって大学を出て企業に就職した方が、よほど楽な人生だったかもしれません。でも、毎日ちがう人が来てくれて、料理を通じてつながることができる。根本にあるのは“人が好き”、なんですね。おいしい料理で人を幸せにできる、こんなにいい仕事はないでしょう。料理人は天職だと思っています。

プロフィール

生江史伸(「レフェルヴェソンス」エグゼクティブ・シェフ)

1973年、神奈川県生まれ。1996年、慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、「アクアパッツァ」入社。フュージョン系のレストランなどを経て、2003年、「ミシェル・ブラス トーヤ・ジャポン」に入店し研鑽を積む。スーシェフを経験後、2008年に英国の3つ星「ザ・ファット・ダック」入店、スーシェフ及びペイストリー部門担当に就任。2009年、帰国。2010年に「レフェルヴェソンス」エグゼクティブ・シェフに就任。2014年度「アジアのベスト・レストラン 50」にて、25位にランクイン。

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