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どれだけ気づくが大事

奥田透(「銀座 小十」店主)

INTERVIEW 2014.10.30

2007年の『ミシュランガイド東京』発刊以来、三ツ星を獲得し続ける東京・銀座の「銀座 小十」、および同二ツ星の「銀座 奥田」をもつ奥田透氏。2013年9月にはフランス・パリに「OKUDA」を開店。 ひのきのカウンターや数寄屋造り、和食器などにもこだわった和の空間で、日本の文化や精神性とともに提供される“本物の日本料理”は、オープン半年あまりで、本家フランス版『ミシュランガイド』にて一ツ星を獲得した。 今まさに世界で戦う奥田氏に、若手料理人へのメッセージをいただいた。

 

クリアすべき課題を書き出し、目標を明確に

 

——「RED U-35」は35歳未満の若手料理人によって競われるコンペティションです。奥田さんが、地元の静岡でお店を出されたのが29歳で、33歳のときに東京・銀座に、「銀座 小十」をオープンされています。独立開業を思い立ったのはいつごろですか?

 

私は昔から独立心が旺盛でしたから、料理人を志した高校生のころから、小さくてもいいから、自分の才覚でできるお店を持ちたいと思っていました。具体的な計画を立てたのは20歳のとき。ちょうど、成人式の当日ですね。25歳でお店を出すことを目標に、独立開業までの今後5年間でクリアしなければならないことを、思いつく限り書き出してみたんです。そのリストを眺めたときにこれならあと5年あればクリアできるだろうと思いました。

 

——ちなみにそのリストには、どんなものがあったのですか?

 

たとえば料理面でいえば、フグをおろせるようになる、アンコウをおろせるようになる、スッポンをおろせるようになる、など。独立したら誰も教えてくれませんからね。次に経営に関すること。帳簿の付け方、税金関係、接客マナー、仕入れなどなど……。こんなふうに書き出すことで、目標が明確になります。あとは、それらの課題をクリアするべく邁進するだけでした。接客を学ぶために夜はクラブでアルバイトをし、仕入れを学ぶために早朝の市場でも働きました。もちろん料理の修業をしながら。目的もなくただ辛抱するのは苦痛なだけだったと思いますが、登山と同じで目標が明確でしたから、それほどつらくはありませんでした。

 

——25歳での独立開業を目指していらっしゃいましたが、実際にお店をオープンされたのは29歳のときです。計画を変更されたきっかけは何だったのでしょうか?

 

22歳くらいのころでしょうか。志摩観光ホテルの料理長だった高橋忠之さんの講演会がひとつのきっかけです。その言葉の一つひとつが胸につきささり、料理の深さを知りました。それまでの自分は料理の表面的なところしか見てなかったことを思い知らされて。たしかに、お店を出そうと思えば5年で実現できたでしょう。でも、そうしたところで自分が納得できる料理を出せるのか。もっともっと料理の深いところを知りたいと思うようになったんですね。そこでもう一度、一から料理を学び直すべく、徳島の老舗料亭「青柳」に入りました。

 

——「青柳」を選ばれた理由は?

 

当時、むさぼるようにして読んでいた日本料理の本は、どれも本当に美しかったのですが、自分の追い求めているものとは少しちがっていました。そんなときに出会ったのが「青柳」の小山裕久さんの『味の風』(柴田書店)です。書店で手にとり、ページをめくりながら深い感動を覚えていました。「これだ!」と。形にならなずにもやもやとしていた理想の料理が、突然目の前に姿を現したかのような感覚、とでも言うのでしょうか。食材がもつエネルギーや魅力を、あますところなく的確に表現した料理の数々は、写真を見ただけで「これは絶対に美味しい」と確信できるような説得力に満ちあふれていました。ここになら、自分が追い求める料理のヒントがあるのではないかと思いました。

 

 

——その後、念願かなって「青柳」に入社されますが、支店の支配人をまかせられるなど、なかなか調理場に立たせてもらえなかったそうですね。普通ならやる気がそがれてしまうところですが、あきらめず続けられたのはなぜでしょうか?

 

それはもう、意地です。根性試しをされているのもわかっていましたから。おそらくご主人は、血気盛んな若者をすぐに調理場に入れてしまったら、料理の上っ面をなぞり、必要な技術だけを習得したら料理を覚えたつもりになって、1年や2年ほどでさっさと静岡に帰ってしまうと思ったんでしょう。そこで、入社当初に命ぜられたのは大将の運転手や掃除。その後、支店のサービススタッフとして働くことになりましたから、直接料理とは関係のないことばかり。それでも、信頼を得るためにも期待以上のことをしてやろうと、がむしゃらに働きました。その結果、売り上げがめちゃくちゃあがりまして、そのうちに支配人にまでなりました(笑)。もちろんその間、ひと時も料理のことを忘れたことはありません。20代半ばは、いちばんいろんなことを吸収する時期でしょう。それなのに自分は調理場に入ることすらできない。それはもう焦りますよね。でも、「今に見ていろ、絶対に負けないぞ」という、根拠の無い自信を抱きながら、自分の理想とする料理を想い描き続けました。それに、料理に関する技術的なところなど、細かなところを教えてくれた“同士”の存在も大きかったですね。それが1年先に入社していた「日本料理 龍吟」の山本征治さんなんですよ。彼には本当に感謝しています。そうした働きが認められ、最後の1年は、専属で元料理長を教育係としてつけていただきながら、支店の支配人兼料理長として「青柳」の料理を体感することができました。

 

——この修業で得たものとは?

 

これだけの修業で青柳の料理を覚えたというつもりはまったくありません。ご主人も、それを私に教えたかったわけではないと思っていますし、いろんな仕事を通じて私に伝えたかったのは、料理にとって一番大事なこと。それは“どれだけ気づくか”ということ。お客様に対して、どれだけ気づき対応できるか。同じ食材でも日々状態は違います。そこで何に気づき、どうすれば最も美味しくなるのかを考えること。それこそが料理である、と。もちろん、技術も大切です。しかし、自分で気づき、考えることのほうがはるかに重要なんです。それなくして料理の上達はありません。今も、自問自答の毎日ですよ。

 

——「銀座 小十」オープンから約10年が経過し、ミシュラン三ツ星を獲得し続ける今も、ですか?

 

そうです。たとえば、鮑の蒸し方、お刺身の切り方、それに料理の基本である出汁について、果たしてこれがベストと言えるだろうか……、もっといい方法があるのではないか、と。料理人人生も四半世紀以上が経過しましたが、この頃は、こうした基本的なところから見つめ直すことが多くなっています。

 

——2009年に出版された自著『世界でいちばん小さな三つ星料理店』(ポプラ社)にて、自らの人生を野球にたとえて「五回の裏に入ったといったところでしょうか」と書かれていました。2011年に「銀座奥田」をプロデュースし、さらに昨年2013年にはパリ店を開店された今、ゲームは何回まで進みましたでしょうか?

 

今は7回表くらいでしょうか。終盤戦にさしかかった今、考えることは、次の世代のために何ができるのかということ。パリでのチャレンジを決意したのは、40代の今ならまだその体力がギリギリ残っているから。銀座のお店を守るだけなら、負けることはないかもしれません。でも、ときには攻めることも大事じゃないですか。3点とられても4点取れば勝利です。実際、文化・風習、常識の違うパリでの挑戦は、予想以上に厳しい戦いです。しかし、この地で成功できれば、ヨーロッパ全域で戦えることが証明できますし、いったん道が開かれれば、そこをステップに次の世代がチャレンジしやすくなるはずです。RED U-35のチャレンジャーである若手料理人のみなさんも、自国の歴史や文化を学び、誇るべき素晴らしい日本料理を世界に向けてアピールしていただきたいと思います。

プロフィール

奥田透(「銀座 小十」店主)

1969年、静岡県生まれ。静岡の割烹旅館「喜久屋」、京都の「鮎の宿つたや」などを経て、徳島の「青柳」で修業を積む。1999年、29歳で地元静岡に「花見小路」を開店。2003年、東京・銀座に進出し「銀座 小十」をオープン。2007年の『ミシュランガイド東京』発刊以来、三ツ星を維持する。プロデュースを手がける2011年開店の「銀座 奥田」でもミシュラン二ツ星を獲得。2013年にはフランス・パリ8区に「OKUDA」をオープン。著書に『世界でいちばん小さな三つ星料理店』(ポプラ社)。

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