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好奇心と探究心で常に進化と深化をする

米田肇(「HAJIME」オーナーシェフ)

INTERVIEW 2014.11.17

2008年にオーナーシェフとして「Hajime RESTAURANT GASTRONOMIQUE OSAKA JAPON」(2012年に「HAJIME」に改名)をオープンし、翌2009年には、ミシュラン史上世界最短で三ツ星を獲得。 瞬く間に注目のシェフとなった米田肇氏。コンピューターエンジニアから料理人へと転身した経歴は少々ユニークだが、それ以上に独創性に満ちあふれているのが氏の料理。 本場で学んだフランス料理をベースにしながらも、己のルーツに立ち戻ることで獲得した、自身から湧き出るアーティスティックな感性と美意識、そして自由な精神を武器に、未知の領域へと歩みを進める。そんな米田氏のこれまでの軌跡を振り返っていただいた。

 

人と同じ道を歩んでいては、あたりまえのことしかできない

 

——システムエンジニアという、畑違いの分野からの転身ですがシェフを目指されたきっかけや経緯を教えてください。

 

きっかけは、小学生の頃に観たテレビ番組で、NYで成功をおさめたシェフの姿に憧れたことですね。子どもの頃の作文で、「一流の料理人になる」と書いたぐらいです。高校卒業時に調理師専門学校への進学を希望していたのですが、「料理人の道に進みたいなら自分で稼いでからいきなさい」と両親に反対されまして。資料請求したら、専門学校の授業料が200万円ぐらいかかると知り、とりあえず大学に進学しました。その後、学んだ知識が社会でどう生かされるのか確認したいのと、将来的に海外で仕事がしたいという思いがあり、コンピュータ関連会社に就職しましたが「やっぱり自分は料理人になりたい」という気持ちを再確認し、2年で600万円ほど貯めて“自力”で調理師専門学校に入学しました。

 

——調理の専門学校に入られたのは26歳でしたが、焦りや不安はありませんでしたか?

 

特にありませんでしたね。逆に、社会人経験をしたことで視野も広がっていますし、自分で稼いて貯めたお金で学ぶのでモチベーションが高まるのもメリットでした。日本人は横並びが好きですが、人と同じルートを歩んでいたら、当たり前のことしかできないでしょう? 違う道を歩んだからこそ、独自性が養えたと思います。

 

——修業をはじめられた当初、どのようなキャリアプランをお考えでしたか?

 

30歳までに渡仏、35歳で自分の店を持つ、と決めていました。実際は、修業する店舗から順番まで綿密に計画していましたが、その時々の運などもあって、細かいところはまったく違っています(笑)。すべて実行できなくても、明確な目標やタイムリミットを決めることは自己実現には必要なことだと思いますね。

 

——修業する上で自らに課していたこととは?

 

常に自分に高めのハードルを用意することでしょうか。スタートが遅かったですから、追い付くために人の3倍努力しようということで、専門学校卒業後の修業先として「もっとも厳しいレストラン」を紹介してもらうよう希望をだしたりしました。とはいえ、僕はスロースターターだったようで、修業時代は自分でもなさけないほど何もできませんでしたね。ものを持っては落とすし、触っては壊すし、自分の手がおかしいのかなと不安になったぐらい。当時の自分と比べたら、今の若い人はみんな本当に優秀ですよ。

 

 

——30歳で渡仏されていますが、その目的と、ご自身にとっての成果はどのようなものだったのでしょうか?

 

料理は土地と密接に関わっていますから、現地で生活しながら働かないと、本物のフランス料理は理解できないし、感性も得られないと思って渡仏しました。最初はロワール地方の「ベルナール・ロバン(2ツ星)」で当時日本では馴染みの薄かったジビエ料理を、次に「オー・ランデブー・デ・ペシェール(1ツ星)」で魚料理の経験を積みました。現地での修業では、向こうのシェフたちに「日本人はすごい技術を持っているのに、なぜフランスの模倣ばかりしているんだ? 料理は芸術と一緒でもっと自由なものなんだよ」と言われ、独創性の重要さを実感させられました。

 

——2005年に「ミシェル・ブラス トーヤ・ジャポン」に入店されていますが、その経緯と目的を教えてください。

 

フランスでの修業を終える頃、家内の親戚がフランス旅行をしたいというので、チケットを手配したのですが、そのチケットと一緒に入っていた在仏日本人向けのフリーペーパーに『ミシェル・ブラス』の募集広告が掲載されていたんです。ミシェル・ブラスと言えば、僕が最初にフランスに滞在した時、買いに行った料理の専門書の隣に彼の本が並んでいて、その斬新な料理写真に感銘を受け、衝動買いしたことを思い出し、ぜひこの店で働いてみたいと電話をしたのですが、なぜか繋がらない。家内に「その番号、ひょっとして日本では?」と指摘され、掛け直してみたら北海道のウィンザーホテルだったというわけです。ミシェル・ブラス本人とは、氏の来日時に3度コンタクトがあったのですが、料理を提供するギリギリまで、あれこれ改良を加えて、常に悩む姿に表現者としての勇気を感じました。あれだけの天才でも悩み、努力をし続けていることに感銘を受け、自分も現状に満足せず、いつでもチャレンジャーでいようと心がけています。

 

——米田シェフといえば、独自の世界感を展開されていますが、そのスタイルに行き着いた時期とそのきっかけとは?

 

今の形になったのは2012年からでしょうか。以前は、毎週来て下さるお客様に新しい料理を出し続けると、発想の引き出しがなくなるので、新しいアイデアを求めフランスへ行ったり、フランス料理の文献を読みあさったりしていました。しかし、どれだけ調べても結局は文献に辿り着くのなら、結局、自分自身の料理など存在しないのだと思ったのです。現地のシェフは自分の内側から湧いてくる発想で料理を生み出し続けています。そのつど文献にあたる僕と彼らの違いを突き詰めていくと、生まれてから何を食べてきたかという記憶や経験の蓄積であり、結局は“ルーツ”に辿り着くんです。己の根源に立ち戻ることでフランス料理という枠から解放され、自然に発想が湧き出るようになりました。僕が育ったのは大阪と京都の間の自然豊かな住宅地で、幼少期は田んぼで虫捕りしたり、小川に腰まで浸かって魚を観察したり、山で山菜を採って食べたりと、まさに“地球との対話”を楽しんでいました。このように、誰の影響も受けず、なんの先入観もない時期に育まれた感性や美意識こそ、僕の料理のオリジナリティの源となっています。

 

——「RED U-35」のチャレンジャーたちへのメッセージとして、米田シェフの野望と若手料理人に期待することをお教え下さい。

 

野望ですか? 「世界最高峰のレストラン」を作ることに尽きますね。それから、会社のテーマとしては「ゲストの感動とチームの幸福の両立」を掲げています。若手料理人には、常に「好奇心の進化と探究心の深化」を心がけて欲しいと思います。最近は「休みの日は1日家で寝ています」なんて言う人を見かけますが、感性や表現力、発信力を磨くには趣味を充実させることが一番ではないでしょうか。あと、最も大事なのは“諦めない”こと。料理人の修業は辛いことも多いですが、しんどい時こそ成果が近づいている証拠ですから。

プロフィール

米田肇(「HAJIME」オーナーシェフ)

1972年、大阪府生まれ。大学卒業後、電子機器部品メーカーでシステムエンジニアとして2年勤務し退職。1998年、大阪あべの辻調理エコールキュリネールフランス料理専門カレッジ卒業後、大阪と神戸のフレンチレストランで修業を積み、2002年渡仏。ロワール地方の二つ星レストラン「ベルナール・ロバン」「オー・ランデブー・デ・ペシェール」で働き、2005年、帰国。「Michel Bras Toya Japan」でブラス自身が担当する肉料理担当部門のシェフを経て、2008年、独立し「Hajime RESTAURANT GASTRONOMIQUE OSAKA JAPON」のオーナーシェフとなる。 2009年、ミシュラン史上世界最短で三ツ星を獲得。2012年、店名を「HAJIME」に。「Asia's 50 Best Restaurants 2013」、「Asia's 50 Best Restaurants 2014」では、それぞれ21位、42位にランクインするなど、アジアでのプレゼンスを高めている。

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