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RED U-35 2016 選ばれし才能たち

REPORT 2016.12.20

RED U- 35も今回で4回目。

国内外の436名の応募者のなかから、書類審査、映像審査、調理審査を経て、ファイ ナリストとなったのは 6 名の若き料理 人。彼らは、最終審査となる「レストラン審査」へと歩みを進めた。

厳しい戦いを勝ち抜いた若き勇姿たちをご紹介します。

 

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“グランプリ”レッドエッグ
井上 和豊


“喜び”を世界のテーブルに 夢は“さすらう料理人

 

「高校3年生の夏。夏場だけ花火師の仕事をしていた父の手伝いをしたときのこと。自分たちが朝早くから仕込んだ花火を見た対岸の大勢の観客から、大きな歓声と拍手が湧き起こったんです。それを聞いた僕は、鳥肌がたちました。人に喜んでもらえる仕事の素晴らしさを知った瞬間ですね」。 「スーツァン レストラン 陳」料理長の井上和豊氏は、より身近な日常のなかで人を喜ばせるべく、料理人となった。そして“自らも料理を楽しむこと”をモットーに、中国料理の道へ。専門学校を卒業後、四川飯店に入社した氏の配属先は、当時オープンしたばかりの同レストラン。

 

「1年目は、己の技を磨く暇もなく、ただひたすら走り回るだけの日々だった」と語る井上氏。理想と現実のギャップに戸惑うこともあったと言う。しかし、多忙を極めるなかにあっても、己を失うことなく日々修練に励み、2年目の冬には日本の中国料理界では最大規模となる「青年調理士のための全日本中国料理コンクール」にチャレンジ。並み居るベテランを押しのけ、みごと最年少ファイナリストに。

 

「ひと回り以上も離れた先輩方と競いあえたことが、大きな刺激になりましたし、評価されることの嬉しさを知りました」。そしてその2年後の同コンクールでは金賞を獲得。総料理長である菰田欣也氏のもとで培った高い技術と表現力により、すでにこのときから頭角を現していた。本場中国研修で触れた伝統技のマスターにも貪欲である。

 

そんな井上氏の夢は、壮大だ。「世界各地を巡り、土地の食材を使った料理を味わってもらうことが夢。若いころから、せっかくこの世に生まれたからには、広いこの世界を余すことなく体感したいと思っていました。今はこうして料理人をしているのですから、その技を活かして世界を巡りたい。どんな場所であっても食材を選ぶことなく、これまで培ってきた技を発揮できる料理人になりたい。そして、いろんな人に自分の料理を食べていただきたい。大きすぎる夢かもしれませんが、まるで実現不可能なものではないと思っています。レッドエッグ受賞をその足掛かりにしたい」。

 

己の信じる道を着実に歩んでいるという自信が、そうさせるのだろう。壮大な夢を語る井上氏の表情には迷いがない。料理をする“喜び”を世界のテーブルに届ける日は、そう遠くないはずだ。

いのうえ・かずとよ(1981年8月13日、秋田県生まれ)
中国料理「スーツァン レストラン 陳」(東京)料理長
2001年、四川飯店に入社。「スーツァン レストラン 陳」(東京)に配属。オープン時から現在まで同店を支えている。2004年の「青年調理士のための全日本中国料理コンクール」熱菜・魚介部門金賞をはじめ、数々のコンクールにチャレンジし、受賞歴多数。

 

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“準グランプリ”ゴールドエッグ
成田 陽平


フレンチから日本料理へ 転身を決意した運命の出会い

 

フランスの名店で6年間働き続けてきた成田陽平氏が、日本料理を学ぶべく門を叩いたのは、京都の「菊乃井本店」。フレンチから日本料理へと人生の方向を大きく変えたきっかけは、日本料理界の重鎮であり、RED U-35の審査員長を2016年まで務めた「菊乃井」主人、村田吉弘氏との出会いにあった。パリの料理イベントでサポートと通訳を務めたことがきっかけで、料理について話す機会を得たのだ。「フランス料理ではフランス人の上に立つのは難しいけれども、日本料理なら世界を相手にすることができる。だからこそ、日本料理を知っておいたほうがよい」という言葉に衝撃を受けた。日本人であるはずの自分が、日本料理を知らないことにあらためて気づかされたのだ。2013年に帰国した後、菊乃井で2週間の研修を受けた成田氏は、すぐに日本料理への転身を決意した。

 

料理人歴は長くとも、日本料理ではまったくの新人。最初の1年は、皿洗いやまかないづくりなどの下積み仕事ばかりだったが、それでも日本料理への想いが消えることはなかった。  日本料理は奥が深い。「RED U-35 2016」のテーマである「発酵」を使ったメニューづくりでは、日本の食文化のベースである米と麹にこだわり、“日本”を表現したいと考えた。最終審査のテーマは「原点回帰」。今はまだフランス料理歴のほうが長いが、「日本や故郷の青森という自分の原点に帰ることを考え、最終審査に挑みました。最後まであきらめなければ必ずチャンスが来ると信じ、やりきりました」という成田氏の想いが通じ、初参加でみごとに準グランプリを手にした。

 

料理への情熱を胸に突き進んできた彼の夢は、さらに日本料理の技術を磨き、故郷で店をもつことだ。「自分の生まれた青森の気候風土に根ざした料理をつくるのが夢。“食”の力で地元をもっと盛り上げていきたい」とその熱い胸の内を語ってくれた。


なりた・ようへい(1985年11月6日、青森県生まれ)
日本料理「菊乃井本店」(京都)料理人
東京調理師専門学校 西洋料理専攻。東京・西麻布の「ル・ブルギニオン」で働き、渡仏。「Alain Ducasse au Plaza Athénée」(パリ)などを経て、2013年より現職。

 

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ゴールドエッグ/岸朝子賞
桂 有紀乃

※岸朝子賞:RED U-35 発起人である故・岸朝子氏の功績を讃え、女性料理人に贈る賞として2015年度より制定


めざすのは、今このとき、この場所にふさわしい料理

 

“生きるために、今すべきこと”を自問自答し、己の信念に従って行動する。岸朝子賞を受賞した桂有紀乃氏はそんな芯の強さを感じさせる料理人だ。一人前の料理人になることを固く誓い、「ザ・プリンス パークタワー東京」に入社後も着実に結果を残しながら、イベントで出会ったスターシェフ、デイヴィッド・ブーレイ氏に師事し、氏のレストラン「Bouley」で研修を重ねるなど、料理人としての幅を広げてきた。しかし、まだまだ課題は残る。

 

「今回のRED U-35でも痛感させられましたが、今の私には“技術”が足りていないんです」。己の想いを一皿に込めて表現する手腕は高く評価されるものの、それを具現化するための技術に不満を覚えているのだと言う。しかし、“今すべきこと”に全力を傾けてきた彼女にとって、その課題克服は時間の問題だろう。時代の空気を胸深くに吸い込み、それを噛み締めるようにして着実に進化を遂げる桂氏の「今このとき、この場所にふさわしい料理」は、さらなる輝きを放つにちがいない。

 

かつら・ゆきの(1984年11月27日、埼玉県生まれ)
フランス料理 ザ・プリンス パークタワー 東京「レストラン ブリーズヴェール」(東京)料理人

2005年、「ザ・プリンス パークタワー東京」入社。2007年より現職。第49回ル・テタンジェ国際料理賞コンクール・ジャポンにて初の女性ファイナリストとなるなど、料理コンクールでの受賞歴多数。

 

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ゴールドエッグ

酒井 研野


独立に向け、研鑽を積み重ねる日々

 

「RED U-35」への1度目の挑戦はシルバーエッグ、今回はゴールドエッグに輝いた酒井研野氏。「RED U-35との出会いによって、これまでの自分が“井の中の蛙”であったことに気づかされました」。以降、料理への想いをさらに強め、「日本料理を世界の料理にしたい」と熱く語る。取材当日には切るだけで完成する究極の料理として、あえて造りを用意してくれた。そこには師匠である「菊乃井」主人の村田吉弘氏の言葉が込められている。

 

「『素材に味をつけてはいけない。素材は神様がつくったものだから味は添えてあげるもの』と教えられました」。青森県出身の27歳。周囲にも「32歳で京都に店をもつ」と宣言し、2017年のうちに菊乃井を卒業し、新たな一歩を踏み出す。日本料理の名店が軒を連ねる京都で勝負するために研鑽を積みながら、再び「RED U-35」に挑戦するつもりだ。「日本人としての誇りをもち、日本料理というものを表現していきたいです」。

 

さかい・けんや(1990年1月29日、青森県生まれ)
日本料理「菊乃井本店」(京都)料理人
大阪辻調理師専門学校 調理本科を卒業後、「菊乃井」(京都)入社。2年目に蓋物、4年目に八寸、6年目に向板となる。2017年中に新たな修業をはじめ、独立開業への道を歩む。

 

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ゴールドエッグ

服部 萌


自身の未来を拓いた、料理への情熱

 

最終審査を経て「自分の足りないところを思い知らされた」と語るのは服部萌氏。かつてある店のホールスタッフであった服部氏は、中国料理の迫力ある調理風景に衝撃を受けたという。オーナーに料理を学びたいと訴えたが「女性は厨房に入れない」と拒絶された。そこに現れた救世主が、のちに「老虎菜」のオーナーとなる花田剛章氏だった。

 

折に触れ花田氏から料理を教えてもらう日々。5年ほど経ったころ、ピンチヒッターとして当時の店の料理人をみごとに務めたことで、彼女の料理人としての歩みがはじまった。「人とのつながりから得たものを活かし、女性料理人の道を拓いていきたい」。細腕ながら中華鍋を振る姿からも意志の強さが伝わってくる。自身のテーマは、少数民族の料理を探求することと、パティシエ時代に学んだことを活かして、中国料理におけるデザートの進化に力を注ぐことだ。

 

はっとり・もえ(1984年6月22日、和歌山県生まれ)
中国料理「老虎菜 本店」(兵庫)料理人 *受賞当時
製菓学校を卒業後、神戸のパティスリーに入社。退社後、中国料理店のホールアルバイトをしながら、料理を独学。2009年から「老虎菜」(兵庫)で料理人となる。

 

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ゴールドエッグ

藤尾 康浩


つねに“世界”を見据える異色の料理人

 

金髪に180cmの長身。15歳でイギリスにわたり、フランス・パリの大学で学んだ藤尾康浩氏には、どこか知的な雰囲気が漂う。パリのレストランでの3カ月の研修がそんな彼の進路を変えた。帰国してすぐ、大阪の「La Cime」で食事をし、その場で働きたいと申し出た。「“研修でなら”と言われて、今でもこうして働いています」。

 

「RED U-35」出場は3度目。今回ようやくゴールドエッグを獲得したものの、「人生で一番悔しいできごと」でもあったと振りかえる。「料理人としてのスタートが遅かったこともあり、勉強と技術は不足しています。しかし、多くの料理人とは異なる視点をもっていることが、今後の武器になると思います」。好きなアーティストの言葉からさらなる想いを語る。「考えるのは“自分が生まれた世界と生まれなかった世界との差”。世のなかにインパクトを残したいんです」。

 

ふじお・やすひろ(1987年12月28日、大阪府生まれ)
フランス料理「La Cime」(大阪)スーシェフ(副料理長)
15歳でイギリスに留学し、パリの大学在学中にフランス料理に興味をもつ。「パッサージュ・サンコントワ」(パリ)で3カ月の研修を受け、「Mirazur」(南フランス)で働いた後、帰国。2012年「La Cime」(大阪)に弟子入りし、スーシェフを務めている。

 

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以上、6名の掲載写真
Article originally published in DEPARTURES Magazine Japan, Spring 2016

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